「わかりやすさ」の時代だからこそ、考えておきたいこと

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どうも、のさか(@breakconnect)です。

スマートフォンとSNSが普及し、誰もが日常的にネットを使うようになった今、情報の発信者に求められるのは「わかりやすさ」ではないでしょうか?

ダラダラと長い改行のない記事よりも、写真や小見出しのある記事の方が読まれやすいですし、「新渡戸稲造の宗教観」とか「MAの仕組み」といったものよりも「英語を3ヶ月でマスターする方法」とか「ゲスの極みの川谷が〜」みたいな記事の方がみなさん、とっつきやすいですよね。

そう考えると、今は「わかりやすさ」の時代だなぁと思うんです。

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「わかりやすさ」の時代

「わかりやすさ」の時代というのは、誰もが理解できるようなもの・ことがもてはやされ、そうでないもの・ことに対しては興味を持たれにくい時代のこと。

この時代のなかでは、個人や企業から発信される情報には、受け手(読み手)に対するわかりやすいメリット・わかりやすいデザイン(構成)・わかりやすい文章が必要とされ、「どれだけ専門性や網羅性が高いか?」ではなく「どれだけ簡単で役に立つか?」が重視されます

具体例を挙げると、NAVERまとめやMERYに代表されるまとめメディア、ヒカキンやはじめしゃちょーといったYouTuber、池上彰のようなわかりやすい解説者などですね。

まとめメディアでは「◯◯する方法」とか「おすすめのカフェ◯選」といった、いかにも役に立つ情報が写真と文章(フォント)を用いて分かりやすくまとめられています。YouTuberにしても、「巨大スーパーボールを作ってみた」とか「コーラ風呂に体中メントスで入ってみた」とか、何も考えず楽に観ていられるものが多く見受けられますよね。

「わかりやすさ」の時代の排除性

そんな「わかりやすさ」の時代では、「わかりにくさ」はどうしても排除されがち。スピリチュアルなもの・専門性の高いもの・抽象的なものなどは、「なんかよくわからない!」と一蹴されてしまうことが多くなってしまいます。

で、それの何が危険なのかというと、「わかりにくさ」に対する拒絶反応が出てきてしまうことなんです。自分の理解を超えたものと接触したとき、理解しようとしなくなってしまったり、「わかりにくさ」にこそ内在する大切なことが蔑ろにされてしまったりするということ。

これは僕が理解できないので例として挙げさせていただくのですが、僕はレコードを買う楽しみだとか、CDのジャケットを買う喜びだとかは一切わからないんですよね。「音源さえ楽しめればそれでいいじゃん」って感じ。

手っ取り早く「中身(ここでは、音源)」を受け取ってきた人からすれば、そのパッケージには何の価値も無いように見えてしまいますし、なんなら邪魔もの扱いすることもあります。

でもだからって、僕が「レコード買う楽しみなんて幻想だ!」なんて言ったら、その楽しみを知る人は不快に思うでしょうし、僕はその楽しみを味わう機会をずっと失ってしまうんです。

これって、凄くもったいなくないですか?

別にそんなことわからなくたって、生きていくには多分何の影響もないんですけど、人としての豊かさとか、生きる喜びとか、なんだか減ってしまうと思うんですよね。

(だから、この楽しみ切実にわかるようになりたい……)

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最後に

もちろん、何事もわかりやすいに越したことはないのですが、「わかりやすさ」ばかり求めていると、どうしても視野が狭まってしまいます。

参照:知っているからこそ、省く勇気を持つ

参照:教育者はいわゆる「無能」な方が良い

ですので、僕らが心がけるべきことは、発信する際は「わかりやすさ」を追い求め、受信する際は「わかりにくさ」に寛容になることなんじゃないかなぁと思います。

そうしてお互いが寄り添い合うことで、情報の質も受け手の感度も上がるので、より効果的なコミュニケーションができるようになるはず!

少なくともいちメディアの人間として、それを夢見て、常に心がけていきたいことですね。

それでは今日はこのへんで。

ではでは。

 

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