どうも、のさか(@breakconnect)です。
先日、Twitterのタイムラインにこんな記事が流れてきました。
最近のインターネットは、“正しい人たち”“正しくて普通の人たち”が多すぎるし、そういう人たちは、正義のためなら、どんなことをしてもいいと思っている。
苦痛で、ほかに言葉を放つ場所がなくて、負の感情を吐き出す場所がなくて、それをインターネットに放流したとする。そういう言葉というのは、たいてい、強い言葉であったり、誰かに対して不快である言葉であることがおおい。"日本死ね”とか“おれが幸せになれないのは全部女が悪い”とか。
そういう、その人の絶望の叫びに対して、それをたまたま見つけた、正しい人が、周りの、正しい人たちに拡散する。正しい人たちは、その人をよってたかって、ぼこぼこにして、正しさで押しつぶす。
引用 – 正義の人たちがインターネットを殺した – マイルドヤンキーにさよならを
まさに自分が思っていたことを、120%代弁してくれた記事でした。日本人は”正しさ”を求められずにはいられないし、”正しさ”を盾にして自分を守ってしまいがち。
このブログでも”正しさ”についての議論は何度もしてきましたが、そろそろ”正しさ”とは何なのか、ということについて僕なりの結論を出してみたいと思います。
スポンサードサーチ
なぜ日本人は”正しさ”を求めるのか?
多くの日本人が”正しさ”を求めるのは恐らく、「神」がいないからでしょう。
「神」というのは確固たる信じる対象のこと。大半の日本人にはこの「神」が存在しないので「これをすればいい!」という正しい行動規範も、ホッと一息つける心の拠り所もありません。その結果”正しさ”の基準が曖昧になり、「何が正しいのか、何が間違っているのか」と不安になってしまうわけです。
だからこそ、ほとんどの日本人が「これは正解です!」と既に決まりきっているものを追い求めて安心しようとします。要は自分で”正しさ”を作りたくもないし、選びたくもないんですよ。
“正しさ”とは世間一般に「良い」と認められているもの・こと
ではここでいう、”正しさ”とは何でしょう?
法律? 文化? モラル・マナー? 親の言いつけ? 先生の教えられたこと?
色々考えられると思うのですが、日本に限定して言うのであれば、”正しさ”とは世間一般に「良い」と認められているもの・ことでしょう。
早寝早起き、バランスの良い食生活、学力の高い学校に行くこと……これらは正しいこと。一方、女遊び、不登校、安月給で長時間働くこと……これらは正しくないこと。その判断基準はなんなのかというと、「世間ではそうだから」「みんなが言っているから」「常識的に考えて」になるわけです。
スポンサードサーチ
“正しさ”は相対的なもの
例に挙げたのは極端に思えるかもしれませんが、実際ネット上で炎上していることって、そういう基準で叩かれているものばっかなんです。みんな、世間という後ろ盾を得た”正しさ”を手に取って、「こうある(する)べきだ!」と一斉に殴りかかる。そこには個々人が持つ自由で多様な”正しさ”を受け入れようとする気概は一切感じられません。世間からズレたことは徹底的に叩かれるのです。
そもそも個々人がそれぞれの”正しさ”を持っているという前提があれば、集団リンチのように”正しさ”を押し付けることはありえないんですよ。それぞれが持つ”正しさ”を受け入れられるので。
先の例で言えば、女遊びしてたら「遊び人」と蔑む人がいるかもしれないですけど、ほとんどの女の子は女慣れしている男の方が好きです。不登校はマイナスに捉えられるけれど、本人からしたら学校よりも家に居るほうが充実しているかもしれません。安月給で長時間働く企業は「ブラック企業」と批判されるけれど、そこにいる人たちはやりがいを持って働いている可能性だってあります。
正しいからといって幸せとは限らない
そしてこれは声を大にして言いたいのですが、正しいからといって幸せとは限らないんです。
むしろ世間一般の”正しさ”に押しつぶされて、自分のアイデンティティすら持てなくなっている人も多くいます。自分が思う”正しさ”を真っ向から否定され続けると、世間一般に良いと認められているものを手に入れることでしか、自分の価値を証明できなくなってしまうので。
だからこそ、個々人が自分なりの”正しさ”を持てるようになるのは大事なことなんです。盲信できる”正しさ”がないのは不安に思えるかもしれませんが、常に周りの顔色伺っているからこそ不安が絶えないのです。むしろ「こうだと思ったらこうだ!」という軸が自分にあれば、不安に思うことはあまりありません。
最後に
とはいえ僕は、世間一般の”正しさ”を全否定したいわけでも、個々人の”正しさ”を全肯定したいわけでもありません。平易な言葉で言い換えれば「世間の常識は無視して、自分の好きなようにやろうぜ」ということを言いたいわけじゃないんです。
僕が言いたいのは、どちらか一方の”正しさ”を無理に押し付けるのは良くないということ。どっちも正しくて、どっちも正しくないのだから「俺の基準ではお前は正しくない!」と糾弾するのはおかしいということなんです。
「俺の基準では正しいと思えないけれど、そういうのもあっていいよな」という風にもっと多様な”正しさ”が認められればいいなぁと思います。こうして考えると「みんな違って、みんな良い」っていう割に、実践するのは本当に難しいなぁ。
まとまりがなくなってしまいましたが、言葉足らずの部分はこれまで書いた”正しさ”に関する記事を参照していただければと思います。
ではではー。
最新情報をお届けします
Twitter でのさかたくみをフォローしよう!
Follow @breakconnect