日本でフォルケホイスコーレをつくるのは難しいと思った話

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※これはフォルケ留学3ヶ月目のときに書いたものに、加筆した記事です。

デンマークに来てもう2ヶ月以上経ち、ある程度冷静に周囲の状況を見ることができるようになってきた。こっちに来る前に考えていたデンマーク像はだいぶ変わってきたし、どの国にも多かれ少なかれ問題はあるものなんだなぁとしみじみと思う。

さて以前書いた記事の通り、僕は共育の場をつくりたいと思っている。そのため実際それが機能しているであろうデンマークのフォルケホイスコーレ(以下、フォルケ)に来ているわけだけど、実際に見てみて思うのは「日本でフォルケをつくれないな」ということである。少なくとも、デンマークのフォルケの制度をそのまま日本に持ってきても、確実に破綻するなと。

今回はその理由について書いてみようと思う。

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民主主義の成熟度合いの問題

朝礼の様子。学生が自分の国のことや趣味、学校生活について話す。これはスライドを用意して、面白可笑しくトイレマナーについて説明していくというもの。デンマークの学生はとにかくプレゼンが上手い

信じられないかもしれないけど、フォルケでは毎日何かしらのイベントが行われる。サイクリングをしたり、ランニングをしたり、サッカートーナメントをしたり、映画鑑賞会をしたり、チーズとワインのテイスティング会をしたり、外でパンを焼いたり、美術館に行ったり、コペンハーゲンに行ったり……とにかく毎日目まぐるしくイベントが開催される。加えて、週末にはフェローシップグループ主催のイベントが開催され、夜通しお酒を飲んでゲームをしたり、踊ったりしている。

これらのイベントはほとんど先生が介入することはなく、かといって特定の誰かが率先して指揮をするともなく、それぞれが主体的に行動してつくられる。これが日本の学生にできるかと問われると、正直難しいと思う。少なくとも、一般的な学生よりも主体性が高いと思われる、インターンシッププログラムの学生でもここまでの活気はなかった。

これはイベント事に限った話ではない。例えば学校で販売しているドリンクの支払い漏れが発生しているときの解決策や、LGBTsの人たちに向けた施策、学校の予算の使い方なども学生同士で議論して決めていく。大半のデンマークの人たちには、自分たちの暮らしに対して、自分で責任を持って考えられているのか、積極的に意見を言い合い、建設的に議論が進む(もちろん声が大きい人もいるけど)。

他方日本においては、行動力のある誰かに依存してしまうことが多く、なかなか全員が一丸となってイベントを企画したり、議論を進めることは難しい。民主主義が民主主義としてまともに機能していない国においては、たとえ学校のような小さなコミュニティであっても、そうした風土をつくることは一筋縄ではいかないだろう。

(もっともフォルケですら、民主主義がしっかり機能しているかと言われると微妙なところはあるのだけど、これはまた別の機会に話そう。)

性的倫理の問題

週末のパーティの様子。基本、このノリなので、騒ぐのが苦手な人には厳しいかもしれない

うちのフォルケにはクラブのような空間があり、週に3回程度夜遅くまでパーティが開催されている。ただゲームをしながらお酒を飲んだり、音楽を聴いて歌ったり、ダンスをしたりするのがほとんどだが、まれに腰に手を回して、キスをしている男女の姿もある。学校の洗濯場ではコンドームの自販機が置かれてあり、学校側もある程度容認していることが伺える(逆に健全かも)。

日本の全寮制の学校は通例、男女の部屋は分けられるが、こっちではすぐ隣の部屋に女の子がいたりする。これは性的倫理性の問題から、日本ではよく思われないだろうが、デンマークでは問題視されない。恐らく性に対してオープンな文化と、ソレも含め自己責任として捉えられる文化があってこそだろう。洗濯物を干すスペースでも女性の下着が普通に干されていたり、図書室に女性器の写真が貼られていたりするので、そもそもあんまり気にしてないのかもしれない。

そういう空間を排除し、男女別棟にすれば済むだけの話かもしれないけど、僕はそういう性の否定や抑圧みたいなことはしたくない。「公的機関で男と女が集まる場をつくるのは倫理的に良くない」みたいな意識と分断のシステムこそが古い性役割の押し付けだと思っているので、ここを外すとフォルケの大切な要素が1つ失われてしまう。そもそも放っておいても人が集まれば性交渉はあるだろうし、あまり意味がないような気もする。現状でこんなこと言っても補助金は下りないだろうけど。

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そもそも「学校」として機能しているのか

留学生が所属するCrossing Borderコースでは、ESDを主として、さまざまな国際問題を学ぶ。しかし専任の先生は忙しく、授業に来られないことも多く、ありきたりなテーマでのプレゼンやディスカッションも多かった

フォルケに来て思うのは、果たしてフォルケが「学校(教育の場)」として機能しているのかという疑問である。少なくとも僕はアジアの外国人として来ているので、毎日が学びと挑戦の連続ではあるが、現地の人たちはどうかといわれれば正直微妙な感じがする。

というのも、前述の通り毎日のように目まぐるしくイベントやパーティがあり、授業や公演の内容や自分の感情の整理がしきれていないように思うからだ。つまるところ、あまり遊びをしてこなかった生真面目な日本人からすれば、文化的な違いこそあれ、ここのデンマーク人は遊びすぎているように思うのである。

もちろん、全員が欠かさずイベントに参加しているわけではなく、参加するものとしないものを分けて、授業の課題や復習をしていたりする人もいる。ただそれがどのくらいの割合なのかが僕にはわからない。もしかしたら、みんな僕の知らないところでうまくメリハリをつけて、自分の時間を設けているのかもしれない。でも、肌感覚では半分くらいのデンマーク人はそうでない気がするのだ。

自分の学びを深めたり、自分自身のことを理解したりするならば、もっと効果的なやり方があるんじゃないかと思うし、今の状況を学校外部から見て、肯定的に捉えられるかと言われれば、微妙な感じがする。そもそも教育なんてすぐ結果が目に見えるものではないのだけど、目の前に起こっている事象だけ取り上げれば、日本では否定的に見られるだろうなと。

ヒュッゲ(居心地の良い空間とか、ゆったりとした時間とかそういう意味)の様子。フォルケでは対話をする時間が多くある

そのほか、セキュリティや教師の質の問題など日本でフォルケを作る上ではたくさんの障壁があるが、それは手腕の問題なのでここでは割愛する。

もちろん3ヶ月が終わる頃には違った印象を持っているかもしれないし、6ヶ月居れる人たちもまた違った印象を持つかもしれないし、それぞれのフォルケ毎においても違うかもしれない。だけど現状は公的な教育の場としては厳しいかなという印象だ。正直、教育や性に理解があり、ある程度の投資ができる北欧だからこそ、成り立っているシステムだなと。

そもそもデンマークの文化をそのまま日本に適応させること自体ナンセンスな話だが、フォルケがフォルケとして機能するにはハズしてはいけない要素も多分にある。それらの要素をいかにして日本の文化と統合させていくかはしっかり検討していくべきだし、社会からの理解と評価を得ていくための取り組みも考えていく必要もある。

参照:デンマーク生まれの大人の全寮制学校「フォルケホイスコーレ」留学体験記

 

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