先日、高校時代の友人からこんな連絡が来た。
ここで言われている「記事」とは、『自分は誰かの「北極星」なのかもしれないということ』のこと。
「あらら、見つかっちゃったか・・・」この連絡が来たとき、どこかで胸を突かれるような感情とどことなくくすぐったいような感情が共存していた。
こんな顔も名前も身分も晒しているブログを運営しておきながら、何言ってんだと思うかもしれないけど、正直この類の記事は「誰かに見られたい、共感されたい。だけど、誰にも見られたくない、貶されたくない。」という微妙な位置づけの記事だったりする笑
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そもそも何故、恥ずかしいことを書くのか
本来こんな恥ずかしいこと書かなくてもいいのに、わざわざこうして自己開示するのにはちゃんとした理由がある。それは、「自分を偽らないようにする」ということ。
僕を含め、多くの人は他人にはなるべく良い自分を見せるようにしているもの。SNSとか見てみてもひたすら良い近況報告ばかりで、如何に良い報告をしていくかの応戦かと思う場面も。
そうして、なるべく良い自分を見せよう見せようとしているうちに、少しずつ自分を偽るようになり、取り繕わずにはいられなくなってくる。
語弊が無いように言っておくと、別に良い近況報告だけをすることが悪いというわけじゃない。ただ、その近況はその書き手の本音なのか、嘘なのかなんてなんとなしにわかるものだから、嘘を書くくらいなら、止めておいたほうが良いと思うわけだ。
参照:SNS内での見えない競争「20代のほとんどが”完璧な人生”をFacebook上で演じようとしている。」|リーディング&カンパニー株式会社
だから、良かったことも悪かったことも含めて、自分がどういう人間なのかをさらけ出すことで自分を取り繕わないようにしようとしている。というか、自分を取り繕っていることを自分でもわかっているから、こうして吐き出していっている面も大いにある。
自己開示をすること
こうした自己開示をしてから僕には親友ができ始めた。これまで仲は良かったけど、なんとなく距離を置いていた友人に全てさらけ出して、今ではゲスなことも清いことも話せる仲になった。
今回の件についても、最初は胸を突かれるような感覚にもなったけれど、今は「やって良かったな」と思っている。喜んでくれたみたいだし、いつか辛くなったときに、このブログを読んで元気づけできたならこれ以上嬉しい事はない。まさに、僕が「北極星」になるときだ。
なにより、自分はやっぱり自分が好きな人を幸せにしたいんだなぁと感じることができた。喜んでくれたことを知って、自分が一番嬉しい。
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「書く」ということ
高校生のころからブログを書いて、ブログを書いていないときも自分の日記をつけてみたり、作詞してみたり、いろんな形でずっと「書く」こということやってきた。
きれいな文章こそは書けないかもしれないけど、少なからずとも、自分には筆の力があると思う。自分が「書く」ことで、誰かの役に立って、それが自分のためにもなればいいなぁ。
僕には音楽はもうできないかもしれないけど、「書く」ということを通して、自分の好きな人たちの北極星やHEROになれたらいいなぁ。
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