どうも、のさか(@breakconnect)です。
子供の頃からずっと思っていたのですが、「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気はどうも苦手だなぁと。
「早寝早起きしようね」、「好き嫌いせず食べようね」、「差別をしないようにね」とか、小学生の頃は周りの大人達からひたすら「正しいこと」を教えられるわけですが、これがどうも好きになれないのです。
今回はそんな「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気、そしてその危険性についてお話していきます。
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「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気が苦手な理由
「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気が苦手な理由は大きく分けて2つあります。
1.多様性がなくなってしまうため
1つ目は、多様性がなくなってしまうため。
「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気というのは、裏を返せば「正しくないこと」をしてはいけない雰囲気ということとも捉えられます。
そうなると「正しさ」に執着してしまうようになって、「正しくないこと」ひいては「正しくないかもしれないこと」までもが表に出しにくくなってしまいます。
その結果、本来は表に出すことができていたであろう、多様性のある意見や行動が出てこなくなってしまうわけです。
2.「正しさ」を強制されてしまうため
2つ目は、「正しさ」を強制されてしまうため。
本来、「正しさ」というものは必ずしも教えられるものではありません。むしろ、社会に出ればそうではない場合の方が多くあります。
「正しさ」は自分自身が様々な経験をしたり、いろんな人々の意見を考慮した結果、個々に定めていく(定まっていく)かなり不確定なものです。
にも関わらず、「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気をつくって、一定の「正しさ」を規定していくのはあまりにも傲慢な態度です。
さらに悪いことに、それが集団的な雰囲気であればあるほど、人々の意見や行動を強制してくるんですよね。これは俗にいう同調圧力というやつです。
小学生のときに観た戦争の映画
極端な話をすると、僕は「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気から、戦争を支持する思想が生まれるとすら思っています。
・・・
僕が小学生の頃、学校では第二次世界大戦で日本に起きた悲劇を描写した映画を見る機会が何度かありました。
そうした映画を見た後には必ず感想文を書かされるのですが、この感想文には「正しさ」が決められていたなと思うのです。
「戦争はいけない」、「平和を守っていこう」これが一定の「正しい」答え。これ以外の感想ー「爆弾カッコいい!」、「戦争面白そう!」などーを書いた日には、あとで先生に呼び出されたり、保護者が呼び出されたり、なんてことになり得ます。
もちろん、「戦争はいけない」ということ自体は客観的に見て正しいものですし、僕も戦争のない平和な状態が一番だと思います。
しかし、僕らの大半は戦争を直に体験したことがありません。その映画にリアリティを感じることはできない可能性も大いにあります(現に、僕はリアリティを一切感じることができませんした)。
そんな実感を伴わない状態で感想文を書こうとしても、本心からは何も書けないんですよ。
だけど、勘のいい子供たちは求められている答えが分かるから書いちゃうんですよ。「戦争はいけない」、「平和を守っていこう」って。
繰り返すようですが、僕は「爆弾カッコいい!」という風に思うのが良い悪い、といったことが言いたいわけではありません。
僕が言いたいのは、感情が追いついていないのにもかかわらず、「正しいこと」を書かせるような雰囲気作っているのは、自由な感想文にそぐわないではないかということです。
それに、そんな風に一定の「正しさ」を教えていく教育は結局のところ「正しさ」の定義が変われば、戦争を喜んで受け入れるような雰囲気にもなり得ます。こうなると、戦前の洗脳的な教育とやっていることの本質は何ら変わらないのです。
だから、「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気は危険なのです。
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「正しさ」を押し付けないこと
僕らは無意識的に「正しさ」を押し付けあって生きています(現に、僕もこの記事で「正しさ」を押し付けています)。
しかし、先ほどもお話したとおり「正しさ」は必ずしも教えられるものではなく、自身の経験と様々な視点を考慮した結果定められていくものです。
ともすれば、大人は「正しさ」を押し付けてばかりいないで、子供が発する「正しさ」を寛容な態度で受け入れていく方がよほど重要なんです。
というか今の社会を見る限り、大人は子供に「正しさ」を押し付けすぎです。頑張ってそれに応えようとして、押しつぶされそうになっていたり、不自由になっていたりする子供があまりに多い。
もっと子供たちには色んな「正しさ」があると思ってもらえるように、まず大人が色んな「正しさ」を受け入れていく。そして、「正しさ」が醸成されていくのを見守っていく。そうすることで子供の中の「正しさ」に多様性と柔軟性が生まれてくるのです。
最後に
とは言うものの、「正しさ」を押し付け過ぎないことはとても難しいもので、自分も知らず知らずのうちに押し付けてばかりになっていてゾッとすることがあります。
少し前にTwitterで家入一真さんが、下のようなことをつぶやいていて「あぁ、本当そうだな。僕も押し付けているな。」と思いました。
「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気に押しつぶされていったものたちは一体どこにいくのか。自分たちが見えていない可能性が摘まれないよう気を付けていきたいですね。
TwitterにしろFacebookにしろ、友好的であることを強制されるこの世界では、「死にたい」など”誰かが嫌な思いをするかもしれない”ことをつぶやくことは許されない、それはもしかして、それこそ死んでしまいたくなる世界なんじゃないか
— 家入一真 (@hbkr) 2015年12月11日
どこかの小学校や会社の朝礼の「ニコニコ元気で大きな声」「お互いのいいところを褒めあいましょう」みたいな光景を思い出すたび反吐が出そうになるが、それに似たものをいまネットに感じてしまう。”誰かを嫌な気持ちにさせるかもしれない”言葉は行き場を失って浮遊霊のようにさまよっている
— 家入一真 (@hbkr) 2015年12月11日
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