どうも、のさか(@breakconnect)です。
障害者や犯罪者、ホームレスといった人たちを「異常」なものとして捉え、「正常」な自分とは一切関係のないこととして断じることは、本当に恐ろしいことだなぁと。
「正常」と「異常」には、明確な違いがあるように思っている人も多いかもしれませんが、全くそんなことないんですよね。
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正常と異常は隔たっていない
例えば、健常者である自分が、ある不慮の事故を境に、何かしらの障害を持つようになるかもしれません。サラリーマンとして必死で働いていたのに、ある致命的なミスが原因でリストラされ、次の職が見つからずホームレスになるかもしれません。
僕らはいつだって、「異常」な状態になってしまう可能性があるわけです。
ちょっと極端なことを言ってしまえば、祭りやクラブなんかも「異常」なんですよね。
だって、普段から祭りの格好をしていたり踊っていたりしたら変ですし、クラブという場じゃなければ、踊ったりナンパしたりする人もほとんど居ないでしょう。
その点で、僕らは「正常」と「異常」を行き来している(できる)存在であって、「異常」は僕らの身近にあるものなんです。
「自分もそうなるかもしれない」という謙虚さ
もちろん、「自分がそうなる(障害を持ったり、ホームレスになったりする)わけがない!」と言い切れることは、ある意味で自信の現れとも言えますし、「そうならないぞ!」という誓いとも捉えることができると思います。
ただ、何が起きるのかがわからないのが、人生というもの。先程例に挙げたように、ひょんなことからそうなる可能性はいくらでもあるわけです。
ともすれば、「自分がそうなるわけがない!」と断じる人は、「自分もそうなるかもしれない」という謙虚さが足りないんじゃないかなぁと思えてくるんですよね。
(余談ですが、「浮気する奴って最低だよね」なんて同意を求められると、僕は息苦しい感じがするんですよね。たしかに最低だけど、自分もそうなる可能性がないとも言い切れないなぁと思ってしまうので。
むしろ、そこで「最低だよね〜」と、軽々しく同意する人ほど謙虚じゃないから信用できないなぁと。
※一応書いておきますが、僕は浮気をしたことはありません)
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自信と謙虚さを持つこと
「じゃあ、自信を持っちゃいけないのか!?」という風に思われるかもしれませんが、そうではなく、僕が言いたいのは「僕らは何にでもなれるし、何にでもなってしまう」ということなんです。
僕らはちょっとした選択の違いで、全く違った自分になる可能性は常にあるわけです。
だからこそ、肯定的に「何にでもなれる」という自信と、悲観的に「何にでもなってしまう」という謙虚さを持っていくことが大事なんです。
自信と謙虚さは矛盾するものだと捉えられがちですが、自信というのは「自分を信じていること」であって、その条件が「自分の良いところも悪いところも受け入れること」なんですよ。
これが単なる傲りだと、悪いところを受け入れられない(謙虚じゃない)。
だから、自信と謙虚さは共存するものだし、その絶妙な感覚を自分の中に取り入れていくことは可能なんです。
最後に
今回のお話だけでなく、2元論で考えたり、何かを分け隔てて考えたりしていると自ずと視野が狭くなり、本質が見失われがちになるんです。
そうした考え方は確かに、議論や考察はし易いのですが、適切な解答は用意できないんです。
だからこそ、僕は中庸的な考え方を支持しているわけで、色んな視点から物事を考察していくことが大事だと思うんです。
少し抽象的なお話が多くわかりづらいかったかもしれませんが、今日はこのへんで。
ではではー。
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