「好き」と「憧れ」を取り違えないこと

どうも、のさか(@breakconnect)です。

先日、「隠居系男子」こと鳥井 弘文(@hirofumi21)さんが、とても共感できる素晴らしい記事を書いていらっしゃいました。

「そもそも、一体自分は何が好きなのか?」ということさえもわからなくなっている人も多いはずです。

目の前に流れてくるものに「これは違う、あれは違う」と言うことに慣れすぎてしまい、本当の好きがわからなくなってしまっている状態。

嫌いな事に「嫌いだ嫌いだ〜!」ってわめくほうが、精神すり減らしているようなイメージがありますが、実はそうほうがラクなんですよね。

好きを言語化する作業の方がとっても体力を使うことだし、精神をすり減らしてしまう難しい作業なんです。
引用 – 「これは違う、あれは違う」と言うのは簡単。でも“好き”を言語化するのは難しい。 | 隠居系男子

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好きを明確にすること

このブログでも「「好き」の程度とか気にすると、なんにも好きになれなくなる」や「「書く」ことの本当の意味」で、自分の「好き」という感覚を明確にする重要性をお話してきました。

鳥井さんが仰るとおり、僕らは情報過多な時代で生きています。勝手に流れてくる情報に対して、「好き」か「嫌い」かを判断するだけでも精一杯で、きちんと言語化するような機会はそうありません。

また、「嫌い」を公言することは精神的な負荷は小さいのですが、「好き」を公言するのは負荷が大きいものです。なぜなら、「嫌い」を否定されることよりも「好き」を否定されることの方が僕らは怖いものだから。

上に挙げた2つの理由が大きな要因となり、僕らはいま自分の「好き」がよくわからない状況に陥ってしまうことが多いのです。

だから、僕らは「好き」という感覚を取り戻していく努力が必要となるわけで、その際にするべきなのが「好き」を言語化し明確にしていくことなのです。

「好き」と「憧れ」を取り違えないこと

ただ、「好き」を明確にしていく上で気をつけるべきなのが、「好き」と「憧れ」を取り違えないようにするということ。

「好き」は感覚・本能的で現実に感じられるものであるのに対し、「憧れ」は論理・理性的でいま現実に感じられていないもの、つまり理想なんです。

そして残念ながら、この「好き」と「憧れ」を取り間違えたまま「憧れ」を追い求めようとする人が非常に多く居ます。

本質的に好きではない「憧れ」を追い求めている人は不幸なものです。その憧れが現実になったところで、自分が思い描いていたような感覚を得ることはできませんし、そもそも「好き」ではないもののために頑張るのは難しいものなので。

その結果、なかなか頑張れない自分を卑下するようになりますし、また自分が何が好きなのかがわからなくなってしまうわけです。

(「自分探しの旅」なるものをずっとしている人は多分、自分の中にある「好き」に目を向けず、自分の外にある「憧れ」を追い求めているから、そうなっているんじゃないかなぁ。)

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最後に

ここ最近、「起業したい!」「フリーランスになりたい!」という立派そうな夢を持った人はどんどん増えてきています。ただ、彼らのそれも「実は”憧れ”が原動力になっているんじゃないか?」と思うものがかなり多い印象を受けます。

僕自身そうだったのですが、周りが何か凄いことをやっていたりとかすると、「自分もなにか凄いことをやらなきゃ!」と思って、自分の好きを蔑ろにした「憧れ」を持ち出しがち。

それも単なる憧れじゃないことを説得するために、「自分はこんなことが好きだから」という理由も知らぬ間に捏造していたりするものです。

そのため、好きを明確にする際には周りの声に対して焦りの気持ちを持たないようにして、“自分の中”にある「好き」を言語化し徹底的に向き合っていくことが大事になります。

まぁそもそも「好き」という感覚とかやりたいこととかって、そんなにすぐに分かるものでもないですし、気長に言語化を続けていくことが重要なんですよ。

ではでは〜。

 

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