僕はまだ「死」を知らない

どうも、のさか(@breakconnect)です。

昨日に引き続き、高校から付き合いのある友人のお話なのですが、今回は「死」というちょっと重たいテーマについて書いていきます。

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「死」を擬似的に感じる

電車での人身事故の話の流れから、身近な人の死についての話題になったのですが、そこで彼が言ったことが頭に残っています。

(毎日死にたくなるけど、)必死で生きようとしている人がいるのだから、簡単に死のうとしちゃいけない。

必死で死に抗う人を見て、自分のことのように心を痛めたり、「死にたい」と思っていた自分を恥ずかしく失礼に思う言葉です。

これは、ある意味で「死」を擬似的に感じている証拠だなと思ったんですよね。

そして、とても羨ましいことだなと。

僕はまだ「死」を知らない

僕は親戚が病気で苦しんでいる姿も、その苦しみからをなんとか払いのけようとする姿も、どちらも見たことがあります。

だけど、彼のようには思えませんでしたし、「死」を身近なものに感じませんでした。

それはちょうど、顔も名前も知らない、どこか遠い国の人が毎日のように死んでいくことに対して、特に胸を痛めることがないのと同じように。

もちろん、僕自身「死にたい」と思うことは22年の人生の中でも何度もありました。それこそ、ほとんど何も感じられなくなるくらい、感覚も死んでしまった時もありました。

でもその時ですら、「どうせ自分は死なないんだろうなぁ」とどこかで思っていたんですよ。

結局僕は今もこうして生きているわけで、「死」というものをまだ本質的には知らないまま過ごしています。

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「死」を知る意味

そもそも、「死」を知る必要なんて無いのかもしれません。

大学の友人が「生とか死とか考えている人は、人生を楽しめないんじゃない?」と言っていたのですが、確かにその通りだなと。

ただ、「死」を意識することで「生」も意識できるというのも、確かに存在すると思うんです。それこそ、彼のように「簡単に死のうとしちゃいけない」という「生」への反転がそうだなと。

だから、「ちゃんと生きている」という感覚を知る点においては「死」を知る意味もあるんじゃないかなと。その意味で僕は「死」を感じてみたいんです。

最後に

簡単に「死」を知ろうとするのも、知っている人を羨ましがるのも、失礼なことなのかもしれませんが、否定されるべきことではないと思います。

というのも、親や教師に「死は悲しむべきことだ」と強要されるように教わって、そう感じられない自分に不安になるより、また、知った気になるよりよっぽど誠実だからです。

参照:「正しいこと」をしなくちゃいけない雰囲気が危険な理由

 

少し前に、大学の友人と「と畜(と殺[家畜等の動物を殺すこと])へ行こう」という話をしました。

そういえば、食べるものも「生」と「死」を負っているわけですが、それも感じないのはきっと自分の手に掛けたことが無いからなんだろうなぁ。

 

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