「書く」ことの本当の意味

どうも、のさか(@breakconnect)です。

『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』などを書いたライターとして知られる、古賀史健さんの著書『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を少し前に読了しました。

本書は文章を書く上での本質的な部分が「これでもか!」と書かれており、ハッとさせられることが非常に多くありました。なかでも、ここ最近僕自身が考えていた「書く」という行為の意味をズバッと書いていたのは感動もの!

今回は、本書を読んで確信を得た、「書く」ことの本当の意味について書いていきます。

スポンサードサーチ

直感的に思ったことを論理的にしていく作業が「書く」こと

古賀さんは本の中でまず最初に、話し言葉と書き言葉は違うものであり、頭のなかにぼんやりとある”感じ”や”思い”を”翻訳“したものが文章であると記しています。

話し言葉と書き言葉の大きな違いは、話し言葉には言葉や声色、表情、身振りなど様々な手段があるのに対し、書き言葉はそれらの手段は一切なく「言葉(文字)」だけしかないということ。

だから「書く」際には、普段話す際に使われている言葉以外の情報、つまりは言語化できていない曖昧な感覚や感情を、書き言葉に”翻訳”していく必要があります。

言い換えれば、「書く」ことには、これまで曖昧なままにしていた”感じ”や”思い”を言語化し、明確にするという働きがあるわけです。

直感的に思ったことを、誰が見ても分かるよう論理的にしていく作業が「書く」ことであり、「書く」という行為を通してはじめて、物事(感覚)を考えることができるわけですね。

「書く」ことによって感覚を明確にした例

抽象的な話をしてもわかりづらいかと思いますので、例を出して考えていきましょう。

例えば、先日書いた「正解・不正解を決めるのは思考停止。だけど、中庸に偏らず意見を持つ」という記事で言えば、「就活している人たちの主張も、起業やインターンをしている人たちの主張もなんだか違和感がある。」と思ったことが始まりでした。

そこから「それってなんでだろう?」と考えていこうとするわけですが、これは頭で考えるだけではなかなか答えは出ないんですよね。

だから、1つ1つ言語化して自分の思っていることに形・意味を与えていきました。

「そういえば、昔から大人たちが論争しているの嫌だった。」

→「就活系の話に限らず、なにかしらの議題について、正解・不正解を決めるのってなんか違和感ある。」

→「自分の正しさを証明することに躍起になって、建設的な議論ができていないからだ。」

→「だから、議論は意見が変わる可能性(中庸性)があるという前提でやらなくてはならない。」

→「自分は正解・不正解を決める不毛さを知っていたから、元来中庸に偏って見てきた。」

→「しかしながら、中庸であることでたくさん損をしてきた。」

→「これからは中庸という姿勢を持ちながらも、きちんと自分の納得いく意見を持つべきだ。」

こんな感じに。

こうして「書く」ことで、自分のなかにあった違和感の正体は「正解不正解を言い争うことに対する不毛さ」だと解りました。さらに、そこから派生する疑問・解決策(「中庸も大事だけど、中庸に偏ってやしないか?」・「中庸性を持ちながら自分の意見を持つ。」)までも明らかに。

ここまで読んでみて分かる通り、僕はこの記事を「書く」までは、自分のなかにあった違和感の正体が「なんとなく」でしか理解できていませんでした。しかし、「書く」プロセスの中で自分がそのように思った理由を考えていくことで、その正体を突き止めることができました。

つまり、「書く」ことで自分の中の「なんかこんな感じ!」という曖昧な感覚を明確にできたわけです。コレこそが「書く」最大の意味で、とても重要なこと!

スポンサードサーチ

感覚を明確にすることが重要な理由

「書く」ことは感覚を明確にするという話をしてきましたが、ではなぜ、感覚を明確することが重要なのでしょうか?

それは、感覚こそがその人が持ち合わせている「本質」だからです。

普段、僕らは何かしら感じながら生活しています。「なんだか、この人信用できないわ。」「学校はなんとなく嫌いだ。」「●●さんは本当の意味で頭がいい。」とかとか。

こうした日々の生活の中で感覚が集まって、その人の思想や本質的な感性が育まれていきます。しかし、もしこれらの感覚を一切明確にしてこなかったとすれば、自分の本質がわからない、つまり、自分のことがよくわからないということになってしまいます。

結果、世間一般で良いものとされている思想に迎合し、自分の感覚を蔑ろにしてしまう。普段何気なく抱く感覚、特に違和感を気づかぬふりをしているうちに感覚が鈍って、最終的に何も感じれなくなってしまいます。

だから、自分の感覚を大切にする事が重要なわけで、「書く」ことを通して感覚を明確にしていく訓練をしていくべきなんです。

最後に

ここまで「書く」ことの意味を書いてきましたが、もちろん、書く以外にも自分の感覚を明確にできる手段も多くあります。

ただ、やはり「書く」ことが最も感覚を正確に読み取りやすく、未だに曖昧なものに論理を与える際には「書く」という手段が最もポピュラーなままです。

僕自身、日常から色んなことを感じているのにまだまだそれらを明確にできていないので、これからも書いていこうと思います。

ではでは~。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でのさかたくみをフォローしよう!

LINEで送る
Pocket