正解・不正解を決めるのは思考停止。だけど、中庸に偏らず意見を持つ

どうも、のさか(@breakconnect)です。

僕は昔から論争系のTV番組が嫌いで、『ビートたけしのTVタックル』とか『朝まで生テレビ!』とかは、全く観たいと思いません。

というのも、「●●は絶対こうだ!」「アナタの意見はおかしい!」と各々が声を荒立てて、他を論破しようとしている構図は、観てて気分が宜しくないもので。

「なんで、みんなそんなに論破したいんだろう?」とずっと疑問に思っていました。

僕はヒドく中庸に偏っている

僕がこんな風に思うのは、価値観的にヒドく”中庸に偏っている”からだと思っています。

浪人・休学し、現役生よりも2年遅れて大学生活を送っている僕の周りには、既に就職した友人もいれば、まさに今就活をしていたり、起業していたり、フリーランスとして働いている友人もいます。

そして、彼らと将来のことや働き方の話をすれば、「大企業は安定している!」「起業はリスクが高い!」という立場と、「サラリーマンは不自由だ!」「自分で事業を立ち上げるべきだ!」という立場に大体分かれます。

僕はその2つの立場の意見については、理解もできれば共感もできます。でも、どちらか一方が絶対解だとは全く思えません。

「まぁ、どっちも正しいよね〜」で終わり。

同じようなことはいくらでもあります。

意識の高い人が言う、「大学なんて行く意味ない。」「また大学生やるのは嫌だ!」というのもとても共感できるけれど、そうは思いません。

かといって、聴く気もない授業に出て、単位を稼いで、サークルや部活動、アルバイトなどに勤しむ大学生にもなりたいとも思いません。

(「否定したいわけではない。だけど、全てを受け入れることはできない。」という姿勢でいる結果、どの立場にも属せなくて孤独というのはご愛嬌。)

正解・不正解を決めることは思考停止

もっとも、個人の意見としては否定するつもりもありませんし、発言すること自体には大きな意味があると思います。

ですが、正解・不正解を決めるものとして論争するのは単に大きなお世話だし、思考停止だとすら思います。

「こちらが正しい、あちらが間違っている」と決めつけてしまえば、もし相手側がベストな意見を出してくれたとしても、否定するための論をまた繰り広げていくだけになりますから。

これが建設的な思考だとは毛頭思えないし、そもそもそんな議論する意味がありませんよね。

中庸に偏る危険性

しかし、中庸に偏るのもまた危険なことです。

自分の論に賛同してくれる人はほとんど居ませんし、「優柔不断だ!」と揶揄されて議論に入れてくれない危険性もあります。

そもそも、「正解・不正解を決めるための議論」を行っているわけだから、「どっちでもない」という意見が通ることはまず無いでしょう。

中庸であることもまた、「正解・不正解を決めない立場で居ればいいや」という一種の思考停止にもなり得ますし。

中庸に偏らず、自分の意見を持つ

こうした思考停止を免れるために、僕らは議論する際、中庸性を保ちつつ、自分の意見を持つ必要があります。

ただ、意見する際には「僕は●●だと思う。……だけど、●●にもデメリットがあることも充分理解している。」といった優柔不断さを出しても良い。こういう姿勢でいれば、相手の意見もしっかり聴けるようになるので、建設的な議論がしやすくなります(もっとも、その優柔不断さを攻撃してくる人は議論向いていないので、話さないほうが良い)。

逆に言えば、こういう姿勢が言動から見えてこないから、相手もムキになって強く反論します。結果、相手の粗探しばかりの不毛な議論に。

もちろん、誰しも自分の意見が否定されればイラッと来るものです。しかし、議論の中で自分の意見の非合理性や非倫理性を理解したり、感情が動かされた場合は意見を改め、相手に感謝すること。

こういう姿勢が、否定しがちで殺伐とした日常を過ごす僕らには必要なんですよね。

 

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