結局のところ、「人の気持ちなんてわからない」のが当たり前だし、「分かってたまるかよ」って感じだ。したり顔で見透かしたようなことを言ってたって、自分の大切な人のこととなると急に何も分からなくなる、自分の欲望で目の前が曇ってしまう、そういうもの。
だからこそ分かり合えることは尊いし、それほどに難しいことなんだと思う。
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分かり合おうとすることも尊い
分かり合おうと努力しても、避けられたり、そっけない態度を取られたり、ウザがられたりなんてことはザラだ。僕らはその度ヒドく傷つき、誰にも笑われてなんかいないのに、誰かに笑われているような気持ちになる。「もう止めにしようか?」なんて考えたりして、あちこちから色んな理由を引っ張り出して、作り上げて、分かり合うことから逃げ出したい衝動にも駆り立てられる。
だけどそれは決して、恥ずかしいことなんかじゃないし、咎められるようなものでもない。分かり合おうとすることも、十二分に尊いのだから。
「こんなことを言えば嫌われるだろうか?」「こうしてあげれば喜ぶだろうか?」とあれこれ必死で考えて、それなのにいざ相手を目の前にすると何も話せなくなって、「言え!早く言え!ここで言わなきゃいつ言うんだ!?」と言えない自分を奮い立たせて……。臆病な僕らはそんな葛藤を何度も繰り広げた末に、ようやく決意するのだ。こんな気苦労を「尊い」と言わずして、何と言うのだろうか。
受け入れられないのも仕方ない
かくいう僕も相手が分かり合おうと努力してくれたのに、無下にしたことはたくさんある。所謂、思春期というやつだ。
僕は小学6年生頃から徐々に父親と話をしなくなった。子どもが離れていくことを察知した父親はなんとかして僕と接点を持とうと、釣りに誘ったり、映画に誘ったりしていた。でも当時の僕には、その不器用なくせに器用なふりした必死さがウザったく思えた。だから、なおさら父親と話さなくなった。中学入学してから高校を卒業するまでの間に父親と話した時間は、たぶん1時間もないと思う。
今になってみればあまりに酷い話で、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、当時の僕にはそれしかできなかったのだろう。父親の行動に感謝しつつも、どうにも受け入れられないものもあるよなぁと思う。
分かり合おうとして努力することは間違いなく尊いけれど、受け入れられないのも仕方ない。
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コンティニューし続けること
その前提があるからこそ言いたいのだけど、笑われたり拒絶されたりしたって、分かり合おうとすることはやっぱり素晴らしい。
僕らは拒絶されずに分かり合える方法を知らない。人の気持ちなんて考えれば考えるほど、分からなくなるのだから。そんな袋小路に入り込んで藻掻きながら、自分の気持ちを伝えて、相手の気持ちに足を踏み入れようとするとか、RPGかよって思う。勇者の剣持っていけよって思う。
でもそのRPGをやる勇気が、分かり合うためには絶対条件になる。自分が弱すぎて何度もゲームオーバーになるかもしれない、「あそこのダンジョンで宝箱開けとけばよかった」って思うこともあるかもしれない。それでも、いま手持ちにあるものを最大限活かして、何度も何度も”コンティニュー”できる人にしかゲームはクリアできない。
だったら、コンティニューし続けるしかない。分かり合おうと努力し続けるしかないのだ。伴う痛みがどんなものであれ、果敢に挑んでいくその姿を誰もが「尊い」と思わずにはいられない。
惨めに思えてもそれで良いんだと、今日も自分に言い聞かせている。
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