どうも、のさか(@breakconnect)です。
社会という広い場であれ、学校や会社、家といった狭い場であれ、そこにはある人(たち)が作った「法」というものが存在します。
そもそも「法」というのは、かなり端的に言えば、自分や周囲の人たちが過ごしやすいように設けられたもの。
時代が進み色んな考え方や立場が増えていきた現代では、それぞれを考慮した「法」がたくさん作られています。
しかし「法」を増やしすぎて、自分や周囲の人たち(特に放送業界とその視聴者)が逆に過ごしにくくなっていることが増えてきているようにも思うのです。
今回は、「法」を定めることに関するお話です。
スポンサードサーチ
「法」を作るのはカンタン
そもそも、「法」を作るのはとてもカンタンなんです。
不利益を受けている側が「これはイヤだ、あれはイヤだ」って喚くだけで、「じゃあ、新しく作りましょう!」という風に大体まかり通っちゃうものだから。
だからそれに味をしめ、本来「法」にするまでもないことまで「法」として定めていこうとする人(たち)もでてくるのです。
そして、その増やしすぎた「法」ために(一部の立場の人のために)、多くの人が不自由に過ごさなければならない状況に陥ってしまう。
これって凄い皮肉ですよね?
自分(たち)が過ごしやすいように設けられた「法」が、自分(たち)を過ごしにくくしているんですから。
「法」を無くしていく努力
だから、僕らはこのような状況においては、1つ1つ「法」を無くしていく努力をしなければなりません。
そのためには、「法」を作るきっかけとなった否定的要因を受け入れていくことが重要となります。
本来に「法」にするまでもない「法」をむやみやたらに増やすということは、自分(たち)さえよければと思っている証拠なんです。
多様性を受け入れる寛容さや他の立場を考える想像力があれば、そんなことはしません。「あぁ、これもこの人たちの文化なんだなぁ。」と思って淡々と受け入れていきます。
スポンサードサーチ
最後に
もちろん、誰かが一方的に不利益を被ることがないよう、ある一定の法を定めて守っていくことは重要なことです。
ただ、一番最初にも少し触れたように、現在は色んな考え方や立場が一緒の場で過ごすような時代です。
それぞれの立場すべてが不利益を被らない「法」を作ろうなんて考えれば、もう殆ど何もできない不自由な状況になってしまいます。
だから、ある一定を越える範囲ではそれぞれがそれぞれを柔軟に捉え、寛容な姿勢で受け入れていく。それが、グローバル化するこれからの時代に求められていることだと思います。
ではでは〜。
最新情報をお届けします
Twitter でのさかたくみをフォローしよう!
Follow @breakconnect