どうも、のさか(@breakconnect)です。
昨日更新した「想像力を育てるたった1つの方法」では、ブレンダ・ウェランド氏(訳:浅野雅志氏)の『本当の自分を見つける文章術』での言葉を引用し、想像力は怠惰の中でこそ育まれるといったことを書きました。
今回は昨日の続きで、想像力が物書きをはじめとした芸術においてだけでなく、日常生活においても重要だということを書いていきます。
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想像力とは何か?
想像力には2つの種類があります。1つは実際には経験していない事柄などを推し量る能力。もう1つは現実には存在しない事柄を心の中に思い描く能力。
一般に芸術における想像力は後者側を指します。前者側の想像力も、リアリティあるフィクションを作る際などで芸術に使う場合もあるでしょう。
ただ、前者側はとりわけ日常生活においても重大な役割を果たすものです。
「経験豊富」でも経験できないことは腐るほどある
僕らは実際に経験したことに関しては、実感としていきいきと鮮明に感じることができます。
しかし、僕ら全員に与えられた時間はたった1日24時間。この24時間の繰り返しをたとえ120年やったとしても、あらゆる経験をし尽くすことは到底不可能です。
つまりはどれだけ「経験豊富」な人であっても、経験できないことは腐るほどあるわけです。
ちょうど僕が22年間日本で生まれ育った経験があるから、他国で22年間生まれ育つ経験ができないように。
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経験できないことを想像する
では、自分が経験できなかったこと、経験しなかった立場にある他者を理解しようとするならどうすればいいのでしょうか?
答えはまさに、想像力を働かせて「こうすればこうなるだろう」「この人はこんな気持ちだろう」と推し量ることなのです。
これに関しては『本当の自分を見つける文章術』で分かりやすい例がありましたので、そちらを引用します。
「『父母を敬え』……これはおもしろい……私はあまりしていないようだ……どうしてだろう?」そして想像力をあちこちとさまよわせ、やがて何らかの真実、例えば、それは父が欠点の多い小心者だとか、母が残念ながらあまり賢くない、といった事実に突き当たります。彼はややがっくりきますが、それでもこの点にもっと光を当てるようにさらに考え、想像力が指し示すものならなんでもやってみようと思います。例えば彼らにもっと優しくし、かんしゃくを起こしたりしないようにします。するとこんな思いが浮かびます。「けちくさくて退屈なのは本当に彼らだろうか?」更に彼は想像力を使って答えを探し求めます。そのうち彼は、キリストが辿り着いたような理解に至るかもしれません。(略)すなわち、もし人間が偉大で十分な想像力を備えていれば、その人はその人なりに十分敬い、愛するであろう、という理解に。
>引用−本当の自分を見つける文章術
まさにここに、僕が想像力が日常生活においても重要だと主張する理由が書かれています。要するに、想像力があれば僕たちは他人はもちろん、自分自身もしっかり視ることができるという理由です。
逆に言えば、想像力がなければ僕たちは他人はおろか、自分すらもまともに視ることができません。父母を敬わず、自分の非も認めることは決して無い「被害者」で終わってしまうでしょう。
そうなれば、簡単に人の価値を測ろうとする。簡単に人を見下そうとする。簡単に人を決めつけようする。
最後に
他にも、想像力は結果を推し量るということにも大いに役に立ちます。
いたずらごころや好奇心ですりきりいっぱいに水の入ったコップをいくつも持っていた子どもも「これだけの量のものを持ち運べば、どこかで落としてしまうかもしれない。そうすれば、服が濡れるし、お店にいる人の迷惑になってしまう。」と推し量ることができれば、きっと普通に水を入れて、別々に持っていくことでしょう。
もちろん、好奇心が想像力を勝るかもしれませんが、好奇心は想像力を働かせた上で成り立つものではないと、単なる破壊でしか失くなってしまうこともあるので、ここは履き違えずにしっかり教育しておきたいところです。
上手く言語化できず、まとまりが無くなってしまいましたが、本日はこれでおいとまします。
ではでは。
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