口達者な論理人間はいつも「正しい」から幸せじゃない

どうも、のさか(@breakconnect)です。

グループディスカッションとかをしていると、「自分とは頭の構造が違うなぁ。」と思うくらい論理的で頭の回転が速い方がたまにいます。

僕は非論理的で口下手な人間なので、そういう方の理論整然と話す姿にとても強い憧れを抱きます。

参考:なにもかも論理的に考えるのは疲れる

ただ、それと同時にたまに感じることもあります。それは、「あぁ、この人は”正しい”けれど幸せじゃないなぁ」ということ。

今回は口達者な論理人間(言い方はちょっとアレですが)が幸せじゃない理由をお話していきます。

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口達者な論理人間に起きている3つ損害

口達者な論理人間は、「正しい」アプローチで「正しい」答えにたどり着くことができます。

一見これは何ら問題のないことのようにも思えますが、その過程と結果の「正しさ」が故に受ける損害は実はかなり大きなものなんです。

それでは順に3つの損害を説明していきましょう。

1.「正しい」から最良ではなくなる

まず1つ目の損害は、「正しい」から最良ではなくなるということ。

彼・彼女ら(以下彼ら)は答えに至るアプローチがしっかりとしているので、ほとんど最短で答えにたどり着くことが可能です。

しかしこれは、彼らは紆余曲折して、様々な出来事や要素を組み込んだ答えにたどり着くことができないということの裏返しなのです。

結果論で言えばどちらでも答えに辿り着くことができますし、どちらがより正しいのかはケースバイケースだと思います。

しかし忘れてはいけないのは、一見無駄に見えるようなこと(ノイズ)を切り取りすぎると、その中にあった豊かさまで失われる可能性があるということ。

紆余曲折して出会えたものの中にこそ、最良の答えになる要素が眠っていたりすることも少なからずあります。なので、「正しい」論理で導き出した答えが必ずしも最良とは限らないのです。

2.「正しい」から批判されない

2つ目の損害は、「正しい」から批判されなくなってしまうということ。

「批判されない」というのは、これもまた一見良さそうに思えるかもしれません。しかし、「批判されない」=「間違いではない(≒正しい)」といった具合のものはどうでしょうか?

つまり、提示された答えには批判(指摘)する部分は確かに無いけれど、どこかしっくりこないものだった場合、批判されない立場というのはかなり辛いものなんじゃないか、と。

こういうことは大体において、本人自体もそのしっくりこなさに気付いているものなんです。そして、厄介なことに論理に基づくのでアプローチ自体は間違いなく「正しい」上、もし鋭い批判をもらったとしても上手に返してしまう口達者さもあるのです。

だからこそ、自分自身でどこを改良すれば良いものか全く分からない状態に陥ってしまいます。

こうなると自己解決もできないし、他人のアドバイスを貰うこともできない……。とても困った状況に追い込まれてしまいます。

だから、批判されないというのは案外辛いことなんですよね。

3.「正しい」から視野が狭くなってしまう

最後3つ目の損害は、「正しい」から視野が狭くなってしまうということ。

先に説明したとおり、彼らは最短のルートで答えにたどり着いてしまうので「正しい」こと以外は見えにくいのです。

そして「正しい」ことばかりを追い求めている内に、「正しい」こと以外の価値を認めようとしない傲慢さを持った人も生まれてきます。

彼らは定量性も具体性も無い「感情」や「感覚」を議論に持ち出してこようものなら、「その効果は?」と持ち前の論理と口達者さを乱用して説き伏せようとしてみたりします。

確かに「感情」や「感覚」を持ち出すと、議論に客観性が無くなり、話が進まなくなってしまいます。しかし人を説得するのは論理ですが、人を動かすのは感情なわけです。

論理と感情の両方があって初めて目的は達成されるのに、片方にしか目が向かないというのは視野が狭い。

最後に

僕自身視野が広いとは全く思わないのですが、口達者な論理人間の方を見ていて、もっと広い視野を持って物事を見たり、無駄なことをたくさんした方が絶対に良いのになぁとは思います。

僕なんか迷ってばかりで無駄なことばかりしているから少しわかるのですが、無駄なことの中にこそキラリと輝る何か重要なものがあったりすることが多いのです。

逆に非論理的な人もこちらの最後に記載している通り、もっと論理的に物事を捉えていく努力をしていった方が良いと思います。

ではでは~。

 

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