たとえ発言は間違っていても、発言するという行為は間違っていない

先日「編集大学生」という、編集やライティングをしている学生を集めて、ゆるーい繋がりを作ろうといった趣旨のイベントに参加してきました。

登壇者が有限会社ノオトの朽木さんで、オフレコばかりの素晴らしい内容だったのももちろん良かったのですが、何にも増してこれまでなかなか出会えなかった編集やライティングをやっている大学生に出会えたことが良かった!

当イベントに参加した方が、『編集大学生に参加して思ったこと』という記事を書いていたので、今回はこの記事を通して思ったことを書いてきます。

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形に残すことの重要性

この記事で書いていることは、後々考えてみれば、本人ですら「あぁ、この頃は考えが甘かったな。」「尖ってたな。」なんて思うことかもしれません(実際僕は昔のブログ記事を見ると、そう思うことが多かったりします)。

ただ、彼女の言っていることは個人的にすごく共感できることが多く、言葉の節々に強い想いを感じられてなんか良いなぁと思うんです。

こういう挑戦的な発言するのって結構勇気がいることで、大体みんな黙っているか、他人の投稿に「いいね」押してるだけで形に残そうとしないんですよ。

もちろん、イベントに行った人が全員ブログを書くべきというわけではないのですが、この記事にリアクションする人は思うことがあるからリアクションしているわけで、思うことがあるなら形に残せばいいのにと思ったり。

リアルで評価されないのは悔しい

実は僕は彼女とは少し話をしたのですが、正直言って特に話題がなく、多分仲良くなれないなぁ〜と思っていました笑

でもSNSでのメッセージのやり取りやこの記事を見たりして、「めっちゃ仲良くなれそう!」と今なら思えます。

往々にしてセミナーとか交流会とかってコミュ力が高い(声が大きい)人が評価されがちなもので、考えや知識が深いのにコミュ力が乏しい人ってめちゃくちゃ損しているじゃないですか。

だから、『意識高い系の集まりが本当に嫌い | 企業の採用人事さんに伝えたいこと』みたいなのを書いたりするわけで、これは僕自身がコミュ障だからリアルの場で評価されないことに対する愚痴なんですが、実際こう思っている人はめちゃくちゃ多いんじゃないかなと思うんです。

もちろん、「コミュ障はライティングに逃げろ!」ということを言いたいわけではないのですが、「喋りが下手=つまらない」みたいな構図って本当に多くて、それだけで人を判断するのって変だと思うし、それだけで判断されるのって嫌だし悔しいなぁと。

だったらせめて伝えきれなかったことは書いておいて、ちゃんと自分の考えていることを伝えておこうと思うわけです。

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発言するという行為には間違いなんてない

発言をすれば当然のごとく何らかのレスポンスはあって、「凄くいいね!」と賞賛されることもあれば、「それは違うだろ!」という批判も来ることもあるかもしれません。

ただ、それって大体が個人の価値観での批判でしか無くて、自分で間違っていると思わなければ無視してもいいものかなと思います。

そもそも、発言の内容は間違っていることはあっても、発言するという行為自体に間違いはありません。(発言すべきでない明らかな失言を除いて)

だいたい僕なんて22歳だし、社会人っぽいことを1年やってるだけでまだまだ知らないことばかり。間違って当然の若者です!

間違っちゃいけないと思えば思うほど何にもできなくなるし、思っていることを発言することぐらい、危害を加えるわけでもないんだから、もっと容認されるべきだと思うんですよ。世間の雰囲気的にも。

だから、もっと自由に発言できるような雰囲気作りをしていきたいし、こういう考え方が広まれば自分らしく生きられる人が増えるから、もっと広まって欲しいなぁ。

 

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