「コミュニケーション能力」と言われて多くの人が喋れるか喋れないか、コミュ障かそうでないかということに目を向けがちですが、実際はそうでもなかったりします。
別に僕はコミュニケーション能力が高いわけでもないですが、毎日ライターさんやライター応募者、社員さん、外部で関わっていただいている方々と直接会って話したり、電話したり、文章で連絡したりしているうちに「コミュニケーション能力」に対する認識が変わってきました。
今回は自他ともに認めるコミュ障である僕がコミュニケーション能力について綴っていきます。
コミュニケーション能力=誰とでも会話が続くこと
コミュ障なだけあって僕もずっとコミュニケーション能力の高さとは、誰とでも物怖じせずに会話を続けられる能力のことだと思っていました。
積極的に他人とコミュニケーションをとって、どんどん自分にとって有益な人脈を広げられるのは、コミュニケーション能力が高い人の特権だと、ずっと羨ましく思ってきました。
ただ、これはコミュニケーション能力のほんの一部分でしかなくて、実際組織の中で会話が上手な人が上手くいくのかどうかといえば、必ずしもそうではないかと思います。
コミュニケーション能力が高い=軋轢を生まないこと
社会人の方(とりわけ管理職)にとってコミュニケーション能力の高さとは、軋轢を生まずに円滑にことを運ぶようにする能力のことのように思えます。
管理側の立場になってみると、「なんでここまで言ってコイツは理解できねぇんだよ!」と思うことも多々あります。
しかし、そんなときにイライラが伝わるような表現をすると、向こうもイライラの刃をこちらに向けてきます。これホントにありすぎて辛い笑
なので、僕らは円滑に事を運ぶためにひたすら気を遣いながら色んな方と接していく必要があるというわけです。
軋轢を生まないこと=気遣いのスキルを磨くこと
では軋轢を生まないためには、気遣いのスキルを磨けば良いということになりますが、これもなんか違和感があります。
コミュニケーションのための気遣いっていう風になるとなんかわざとらしいというか、うそ臭いというか、、、
正にそれを実践している人は、仕事から離れると仕事場での態度からは想像もつかないほど冷たくなるので怖いなぁと。そういう人と信頼関係を築けないなと思ってしまいます。
全てがコミュニケーション
コミュニケーションとはそもそも、人に何かを伝えて、その何かをやってもらうための行為です。当然のことながら、信頼関係ができていない人から何かをお願いされても「なんでお前のいうことなんか聞かなきゃいけねぇんだよ!」と思います。
部屋が散らかっているのにみんな面倒臭がって片付けないでいる。そんな中、率先してみんなのために片付けをやってくれる人が居たらその人への信頼度って上がりますよね。その人のお願いだったら「なんか聞いてあげようかな」と思いますよね。
逆に人に面倒事を任せっきりで自分のことばかりやっている人からのお願いは「なんで都合の良いときだけお願いしてくるんだよ。」と思いますよね。
そう考えると、普段自分が何気なくしていること全てがコミュニケーションだということに気付きます。したがって、コミュニケーションのためにある気遣いはわりとすぐに剥がれ落ちてしまいます。全てを気遣いで纏うことなんて至難の業なので。
じゃあコミュニケーション能力を上げるにはどうすればよいかと考えれば、気遣いが自然になるようにするしか無いんですよね、もう。
こんなこと考えている時点でもう自然じゃないんですけど、それでも、自然にー心から「相手のために」と思って行動できるかどうかっていうのが、割りと重要なんじゃないかなぁ。
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