「教育」という考え方自体がもう古臭い

どうも、のさか(@breakconnect)です。

先日大学の友人と教育について話していて、面白いなぁと思うことがありました。

彼は「教育」という言葉はあまり好きではないようで、代わりに「共育」という言葉を使っていきたいと言うのです。

理由を聴くと、こう答えてくれました。

「『教育』は『教え、育てる』ってことだから、教える立場(教師)が上で、教えられる立場(生徒)が下みたいなニュアンスがあるやん。でも別に、教師は必ずしも正しいわけじゃないし、間違っていることもあるかもしれない。それなのに教師が上の立場だと、生徒は教師側の勝手な正しさを押し付けられてしまう。それって、なんかおかしいよなぁって。だったら、教師も生徒も全く同じ立場で『共に育っていく』っていう風に考えるべきなんじゃないかなぁって。」

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「教育」には尊敬がない

「共育」という言葉こそ思いつかなかったものの、僕も全く同じことを思っていました。教師も生徒も「共に育っていく」存在であって、一方的に何かを教えたり、学ばせたりすることは全く理に適っていないよなぁと。

このブログを通して何度も伝えてきたように、教育において最も大切なものは「尊敬」なんです。生徒一人ひとりを対等な存在として捉え、そのありのままの生徒を視ること。

参照:管理職は単なる「小言のうるさい姑」になってはいけない

しかし公教育で考えられるような「教育」には、尊敬のニュアンスはあまり含まれていません。どうしても教師が上の立場で、生徒は下の立場になってしまい、教師は生徒に「これはするな!こうしなさい!」と強要しがちになります。それは教育システム的にもそうで、あの講義形式の正解が既に決まっている画一的な授業からも見て取れることでしょう。

「共育」をする小学校の先生

では、具体的に「共育」をするとはどういうことなのでしょうか?

これに関しては、東京学芸大学附属世田谷小学校に勤務する、沼田晶弘先生がロールモデルになるでしょう。

この前、社会科で観光大使っていう取り組みをやってみたんです。それも「勝手に観光大使」っていうちょっと洒落た名前をつけて、「今日からみんな、観光大使に就任するからな」とか言ったら、子どもは「はぁ?」みたいな

「全員好きな都道府県をやっていいぞ。パワポで資料作りにいくぞ」って言ったら、パワポ使っていいの?みたいな大喜びで。「戻るボタン」の素晴らしさと、ググり方、そして著作権についてだけ教えました。

(中略)

もうその県についてすごく詳しくなって、最後に一人ひとりが観光大使としてプレゼンしたんですけど、やっぱり最後にまとめとしてノートにしないと書く力がつかない。そこで考えついたのが、「よしこれ、知事に送るぞ」と。それで本当に送ったんですよ、全知事に。

子どもは「またこの人変なこと言ってるな」みたいな感じでしたけど。でもノートにまとめて送ったら、知事からお手紙が来たり、お礼にクリアファイルとかを送ってもらったり、兵庫県からは「勝手になんて言わずに正式に特別観光大使に任命します」みたいな通知が来たり、島根県からは学校にゆるキャラ「しまねっこ」が来ましたね。

引用 – この小学校先生がすごい! 子どもたちのやる気を引き出す数々の仕掛けとは

このあいだ原始時代の話をしていて、「みんな同じ服を着てるのはなんでだろう」って聞いたら、僕の中では「それしか材料がないから」っていう回答が来ると思ってたんですよ。そしたら「流行だから」だって(笑) 確かに、まあ流行っていたのかもしれない

同じ材質しかないからみんな同じ服を着ている。でも、それを流行と言って何が悪いのかと。これいいじゃん、みたいな気もする。そういう時に僕は「おおー!」とか言いますけど、確かにふざけてると受け取られてもおかしくないですよ。真面目な勉強してるのに「流行」の一言で終わらせようとしてるんですから。

もちろんそれだけじゃ教育は成立しないので、「じゃあなんで流行になったんだろうな?」って考えます。考えるというプロセスを挟んだほうが定着しますね。やってることは奇抜に見えるんですけど、内容的にはどスタンダードだと思います。

引用 – この小学校先生がすごい! 子どもたちのやる気を引き出す数々の仕掛けとは

沼田先生の授業の「共育」っぽいところは、「変なこと言ってるな」と生徒に思わせているところなんですよね。普通はそのベクトルが逆なんです。生徒の発するおかしなことに対して、教師が「変なこと言ってるな」と一方的に思うだけ。でもそうなると、生徒の発想の限界値は狭まってきて、発想力や主体性が育たなくなってしまう。

一方沼田先生の授業では、教師は生徒の発想を狭めるどころか、むしろ広げています。これは教師が「こうしなさい!」と正しさを押し付けようとせず、「こうしたらもっと良くなるかも!」と生徒と一緒に考える形で提案しているからこそできることだと思うんですよね。

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最後に

何かと縮こまってしまいがちな世の中において、生徒の発想の限界値を高めていくことはかなり大事なことになってきます。

その限界値を高めるのが「共育」という意識であって、それがなきゃ単に詰め込みや正解探しの教育をやめたところで、根本的には変わらないんじゃないかなぁと。

教育改革だなんだと言われてきているのはいいことですが、根本的な問題がどこにあるのかを理解して改革を進めていただければなぁと思います。

それでは今日はこのへんで。

ではでは。

※「共育」は親・教師・学校など教育権を持つ主体だけでなく、多様な立場や領域の人や組織が連携して教育を担うことという意味合いもあります。

 

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About のさか たくみ

1994年生まれ、大阪出身。同志社大学・教育文化学科卒。在学中にメディアの立ち上げや大学のサイト製作・入試制度の提言、デンマーク留学、休学インターンシップなどを経験。2018年4月に有限会社ノオト入社。「個の夢が否定されず、自分らしく活きられる世界」を。