「成長」を絶対美とする雰囲気には、いささか疑問だ

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どうも、のさか(@breakconnect)です。

去年ETIC.のインターンプログラムに入っていたとき、「成長」という言葉を耳にタコができるくらい聞きました。

僕自身「成長」するためにインターンに参加していたので、「成長」という言葉を特に何も考えずに使っていました。しかし、インターンして半年を過ぎたあたりからそうした「成長」を全面に押し出した雰囲気に疑問を抱くようになり、「成長」というあまり言葉を使わないように。

当時はその違和感がよく分かっていなかったのですが、今思い返してみると「あぁこういうことだな」と。

今回は、「成長」という言葉を使うことに対する違和感についてお話していこうと思います。

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そもそも「成長」とは何なのか?

その違和感の大部分は「成長」という言葉を使っている人自身が、「『成長』とは一体何なのか?」をちゃんと理解していないことにあります。

それが何のためのものなのか、何を指すのか、何をすればいいのか、そもそも「成長」する必要があるのか……こういったことを正確に説明できる人は僕を含め、ほとんどいなかったんじゃないかと。

もちろん、ETIC.のプログラムでは将来設計やそのための具体的な課題を自分たちで設定していたので、それを達成することが「成長」だと言うことはできたでしょう。

ただ、それだけが「成長」だとはどうも思えません。なんだか取ってつけたようで、どことなく物足りなさを感じるのです。

「成長」だけが全てなのか?

そして、もう1つ違和感として挙げられるのが、「成長」を絶対美として考えられていること。

このある種偏った思想は「顕在化している成長」ばかりを重視し、「成長していないこと」あるいは、「潜在化している成長」を軽視する雰囲気を生み出します。

しかし、そもそも「成長」というのは分かりづらいものなんです。

「売上を前年比5倍にした」とか「数百万ダウンロードのアプリを作った」といった目に見える成果はさておき、「社会人として1年過ごしてきた」とか「ライターと積極的にコミュニケーションをとった」といった経験的なものが「成長」だと認識はされないんですよね。

そうした経験がまわり回って、実は自分の将来に貢献することも有るのにもかかわらずです。

言わば、その時点では単なる点であったものが、有機的に繋がって線になる可能性はいくらでもあるのに、分かりやすい成果(線)ばかりに目が向いてしまっている状態

だから、「成長」を絶対美とする思想を全面に押し出すと、成長以外の大切なこと(まわり回って成長に繋がること)が見えなくなるんです。これは、先に挙げた物足りなさに関連するところでもあります。

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最後に

語弊がないように言っておきたいのですが、僕は「成長」が悪いことだとは一切思っていません。

僕がここでお伝えしたいのは、「成長」が一体何なのかも良くわからずに、「成長」というものを絶対美とするのはどうなのか、という疑問(問題提起)です。

ここをよく考えないと、結局本当の意味での「成長」は無いんじゃないかなぁと思うので、是非「成長」について考えてみてください。

今日はこの辺で、ではではー。

 

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