どうも、のさか(@breakconnect)です。
僕は大人しめの関西人なので、お笑いはさほど分からないのですが、「なんか面白いこと言って!」って最悪なフリだなぁと。
- 面白い材料が無いので、自分で0から面白いこと考えなきゃいけない
- にも関わらず、「面白いこと」という縛りがあるため、無駄にハードルが高い
- そのくせ、面白さを全て他人に放り投げていて、発言している当人は一切責任を負わない
本当に最悪。「関西人でしょ? なんか面白いこと言ってみて!」なんて言われた日には、1人反省会必須ですよ……
とまぁ、言われている側としては最悪なフリであることは間違いないのですが、言っている側も凄くもったいない考え方しているんだなぁと思うんですよね。
スポンサードサーチ
「面白いこと」は誰かがくれるものじゃない!
そもそも、「面白いこと」は誰かがくれるものじゃなくて、自分で生み出していくものなんです!
以前、コピーライターの糸井重里さんが『今日のダーリン』でこんなことを書いていらっしゃいました。
たのしいことというのは、だれかがくれるものではない。
だれかだとか、なにかだとかといっしょに、
じぶんで生み出すものだ。
「たのしい」が雨のように降り注いできたとしても、
あなたがたのしくなるとはかぎらない。
「たのしい」は、もともとあなたが持っているもので、
あなたの「なかに(!)」あるものなのだ。引用 – ほぼ日刊イトイ新聞
まさにおっしゃる通りで、いくら面白い(たのしい)ことがあっても、自分が面白さを生み出せる人じゃなきゃ、それを感じることができないんです。
面白いこと教えてくれる現代
で、面白いことは自分で生み出すものというのは、よくよく考えれば至極当然のことなんですが、どうして「面白いことは与えられるものだ」と思い込んでいる人が多いのでしょうか?
糸井さんの言葉を借りるのであれば、それが「現代というもの」だから。
人間がたのしいことを見つけるより前に、
「これはたのしいですよ」ということが、
ひっきりなしに流れてくるのが、現代というものだ。
テレビだとか、ゲームだとか、スマートフォンだとか、
「ここにたのしみがありますよ」と教えてくれる。
もちろん、そのことがわるいことだとは思わない。
たのしみというものを、
だれかに与えてもらうものなんだと
思いこんでるそのクセが、もったいないと思うのだ。引用 – ほぼ日刊イトイ新聞
こちらに付け加えるとしたら、学校教育が「言われたことだけやっていれば、いい人生を送れる」という思想を根付かせていることも大きな要因となっているでしょう。
要は、「与えられることは当然であり、その与えられたものに対して、適切な反応をすることこそが自分たちの役割だ」と思い込んでいるんです。
だからこそ、自分が面白くないことを他人や環境のせいにしてしまう。「なにか面白いことが起きないかなぁ」とか「世の中つまらないなぁ」とか思っている人の大半は、自分がつまらないだけなのに。
スポンサードサーチ
最後に
現代は面白いことがひっきりなしに流れてくる時代です。これは言い換えれば、面白いことを見つけやすい時代とも言えます。
問題は膨大にある選択肢の中から自分のしっくりくるものをどう選ぶか、ということ。与えられるものだと考えていると視野が狭まってしまうので、能動的に選択していって、自分なりの面白さを生み出していきましょう。
糸井さんも、そのヒントを出していらっしゃいます。
たのしくもなんともない場に、
たのしいことを見つけたり、生み出したりするのは、
よくそれをしている人には、むつかしいことではない。
じぶんがたのしければいいのだから、
人に迷惑をかけることもないし、批判されることもない。引用 – ほぼ日刊イトイ新聞
「こんなことしたら嫌われるんじゃないか?」と考えてしまうかもしれませんが、大抵はそんなこと無いんです。本質的に迷惑をかけることがないなら、もし心無い批判を受けたとしても、突き進んでやれば良いんです。
「面白いこと言って!」と言ってしまう人は、自分から面白さを生み出せるよう努力してみてください!
それでは今日はこのへんで。
ではでは。
最新情報をお届けします
Twitter でのさかたくみをフォローしよう!
Follow @breakconnect