ナメられたらラッキーだと思え

「何クソ、今に見てろよ!」

昔からナメられるとどうしてもそう思ってしまう自分がいる。

その反骨心のおかげでできることは確かに増えたが、自分の本来の気持ちを見失ってしまうことも増えた。

「ナメられたらラッキーなんだ」

ふとそう思えたとき、今まで過剰に背負い込んできた義務感や自責の念がバサッと落ちた気がする。

優秀だと思われること

「君はとても優秀だ」

そう思われて嫌な気分になる人はいないと思う。

優秀だと思われたら、良い話が舞い込んで来やすくなるかもしれないし、モテるかもしれないし、何より自信にもなるだろう。

だけどそうしたプラスの要素の反面、マイナスの要素もある。

優秀だと思われたら優秀であらなければならない。あらゆるパフォーマンスにおいてのハードルが高くなってしまう。

それが分相応のハードルならまだ良いかもしれないが、そうじゃないハードルも数多く存在する。

そして、なんとか乗り越えようと分相応を超えた急ごしらえの行動をすると、たいてい失敗するものである。

そうした失敗が致命傷となり、自信を失ってしまうこともあり得る。

「あぁ、自分は優秀ではなかったんだ」と。

ナメられることに反骨心を燃やす

そう考えると、ナメられた状態というのはとてもラッキーだ。

過剰な期待をかけられることもないから、気負わず自分のペースでやればいい、無理なハードルを超えなくてもいい。

だけど、一昔前の僕のようにナメられることに反骨心を燃やしすぎてしまうと、また無理なハードルを設定しようとしてしまう。

「『ギャフン!』と言わせたい」という歪んだ承認欲求から、自分のやりたいことややれることをすっぽかした夢や野望を語り出す。

そんな大それたことはできないし、本当はやりたくもないくせにだ。

そうして肥大化していく自分と現実の自分の乖離が激しくなってどんどん辛くなってくる。

優秀である必要なんか無い

だから、認めて放り出すほか無いのだ。

「自分は優秀ではない」と。そして、「そもそも優秀である必要なんか無かったんだ」と。

誤解がないように言っておくが、僕は「自分は優秀だ」と自信を持つこと否定しているわけではない。

そうした自己肯定感はとても大事だ。しかし、優秀であることに固執する余り自信を無くしたり、自己を見失ったりしている人が多くいるのも事実だ。

自分が何のために優秀であらなかればならないのか、それが自分がやりたかったことなのか、そうした自分にとっての分相応を考えなければ、いずれどこかで壁にぶつかってしまうものなのだ。

最後に

優秀だと思われると良いこともたくさんある。だけど、誰もがみんな自分が憧れているふうにはなれない。

別に「憧れ」を追いかける必要なんてないのだ。「好き」を追いかけたほうがきっと自分らしいし、能力も発揮できるはずだ。

参照:「好き」と「憧れ」を取り違えないこと

「ナメられたらラッキー」

そう思えることは、自分の「好き」に目が向いている証拠なのかもしれない。

 

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